こんにちは。chia(@mtrktnh)です。
今回は京都検定にも出題される【三筆】についてまとめてみたいと思います。
☟まずはこちらをどうぞ。第12回京都検定2級の過去問からの出題です。
平安初期の能書家のうち「三筆」と称される人物は、空海、橘逸勢と、もう一人は誰か。
(ア)小野道風 (イ)嵯峨天皇 (ウ)菅原道真 (エ)藤原行成
正解は(イ)の嵯峨天皇。
分からなかった方も本記事でまとめますので、参考にしていただければ幸いです。
三筆とは?
三筆(さんぴつ)とは、「日本の書道史上、最も優れた3人」を指す言葉です。
三筆に選ばれている人物は以下の通り。いずれも平安時代の人物で、「平安の三筆」とも呼ばれます。
- 空海(くうかい)
- 橘逸勢(たちばなのはやなり)
- 嵯峨天皇(さがてんのう)
本記事は一人一人にフォーカスしてご紹介して行きます。
空海(弘法さんの名で親しまれる真言宗の開祖)
空海は真言宗の開祖。「弘法さん」の名でも親しまれています。
弘法さんと言えば、「弘法も筆の誤り」の慣用句が有名ですね。
この慣用句の意味は「その道にすぐれている人でも、時には失敗することがある」というもので、書に優れた空海も、時には書き損じをすることがある、ということから来ています。
空海は京都・東寺で私立の学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開いたほか、和歌山の高野山に金剛峯寺を開きました。
橘逸勢(非業の死を遂げた平安時代の貴族)
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橘逸勢(たちばなのはやなり)は平安時代の貴族であり、能書家。
遣唐使として唐に渡った後は平安京で琴と書の第一人者として活躍しましたが、
皇族への謀反を企てているという無実の罪で流罪となり、そのまま病死してしまったという悲しい経歴を持ちます。
非業の死を遂げたことで橘逸勢の死後は怨霊になったと伝えられており、現在も上御霊神社と下御霊神社に祭神として祀られています。
嵯峨天皇(空海と深い関わりのあった天皇)
嵯峨天皇は平安時代初期の日本の天皇。父親は平安京の遷都を行った桓武天皇です。
平安時代においてごく平穏な時期を過ごしたと知られ、漢詩や書道を嗜みました。
嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院は現在の大覚寺となっており、実際に嵯峨天皇が記した般若心経が遺されています。
寛永の三筆
書道の達人として最も有名なのは上述した「三筆」の三人ですが、
江戸時代(寛永の時期)に書道で名を馳せた人物を「寛永の三筆」と呼んでいます。
「三筆」に加え、こちらもセットで覚えてしまいましょう。
- 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
- 近衛信尹(このえのぶただ)
- 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)
本阿弥光悦(多彩なマルチアーティスト)
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は寛永期の書道家・陶芸家・芸術家。
刀剣の鑑定を家職とする本阿弥家に生まれ、書道家のみならず、陶芸家や茶の湯など、あらゆる芸術面で後世への影響を残しました。
俵屋宗達、尾形光琳と並ぶ琳派(りんぱ)の祖とされており、
本法寺には彼が作庭した庭「三巴の庭」があります。
書道の達人であるだけでなく、陶器や庭も作ってしまうとは…!マルチアーティストすぎる…!
彼の記した書は、京都では京都国立博物館のほか、妙蓮寺と本法寺に遺されています。
近衛信尹(五山送り火の文字を書いたと言われる公家)
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近衛信尹(このえのぶただ)は安土桃山時代~江戸時代初期を生きた公家・関白。
書道のほかに和歌や絵画でも優れた才能を持っていたと言われています。
彼の記した和歌の屏風は東京国立博物館に収蔵。
8月に京都で行われる「五山送り火」の、「大」の文字は近衛信尹の文字によるものとされています。
法号は「三藐院(さんみゃくいん)」。死後は東福寺に葬られました。
松花堂昭乗(石清水八幡宮の僧侶)
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松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)は江戸時代初期の真言宗の僧侶。
真言宗の開祖は空海なので、セットで覚えると分かりやすいです。
前述した二人ほど多くの逸話は残っていませんが、
石清水八幡宮で出家をした後、晩年はその地に草庵「松花堂」を建てて過ごしたと言われています。
彼が建てた草庵は現存していませんが、南方に移された場所に新たに「松花堂庭園・美術館」が建てられており、「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡にも指定されています。
まとめ:「三筆」と「寛永の三筆」、セットで覚えてみましょう
今回は京都検定対策として「三筆」と「寛永の三筆」の、計六人の書家をご紹介しました。
三筆に選ばれた人物名を覚えるだけでなく、
彼らにゆかりのあるお寺や逸話をセットで覚えると、より理解が深まるはずです◎
より詳しい解説は、ぜひ公式テキストブックをどうぞ!☟