沖縄でおばあから聞いた話(沖縄慰霊の日を迎えて)

つな芳のこと

 

6月23日。今日は沖縄慰霊の日、とのことでした。
「とのこと」と他人事のように表現したのは、今朝ニュースを見るまで、今日が慰霊の日であることを知らなかったからです。

今日このテーマで記事を書こうと思った理由は、3つ。

  • 1つ目は、沖縄が好きな癖にこの日を知らなかったことを恥ずかしく思ったから。
  • 2つ目は、偶然にも3日前まで沖縄にいたから。
  • そして3つ目は、沖縄で出会ったおばあちゃん(以下おばあと表現します)の話が、今日という日に大きく引っかかったから。

先日沖縄に行った際、旅先で出会ったおばあがあまりにショッキングな話をして来ました。その話は私の(平和だと思っていた)沖縄に暮らす人々のイメージを変え、心の中に大きなわだかまりを作りました。帰宅してから日が経っても、そのもやもやが消えることはありません。

これは文字に起こすしかない。文字に起こして一旦心を整理するしかない。

そう思い、今回記事にした次第です。

文中には私の推測が多く含まれるため、あくまで都会で暮らす若いヤツが沖縄に行って感じた日記、とでも捉えていただけたらと思います。

***

つい3日前まで旅行で友人と沖縄に行っていました。
天気は少し悪かったけれど、綺麗な海で遊んで、美味しいものを沢山食べて、お土産を買って。とても楽しかったです。
とても楽しかったけれど、1つだけ、旅先で浮かれ気味な私達に(墨汁を一滴垂らすみたいに)暗い影を落として行った1人のおばあがいました。

突然話しかけてきたおばあの話

那覇から北へ80キロほど行った今帰仁という村で、滞在していた名護に戻るためのバスを待っていた時のことです。

75歳くらいの、1人のおばあがニコニコと近寄ってきました。
おばあは(普段は家に引きこもってパソコンばっかやっているせいで温室育ちのアスパラガスみたいな)私の手を優しく取り、「あんた真っ白ねえ、きれい、きれい」と褒めてくれます。

「わたしは観光客がすぐ分かるよ。いつも観光客がいたら、タンカンとからっきょうとかあげるんだけど、今日は何も持ってなくてねえ。ごめんねえ」

その地で採れる野菜を分けてくれるおばあ。なんて優しいんでしょう。しかも頼んでもいないのに手持ちが無いことを謝られてしまいました。

 

おばあ「この前はフィンランドから来たっていう人にこんなでっかいタンカンをあげてねえ。食べたことないって言うモンだから」
わたし「それは喜ばれたでしょう」

おしゃべりなおばあの話は止まりません。

おばあ曰く、会う観光客に物をあげるのは「人生、一期一会だから」だそう。
確かに私とおばあだって、もうこの先再会することは恐らく無いはずだ。

おばあ「わたしは今までに何度も死のうとしたんだ。自殺未遂を何度も繰り返して、それでも死にきれなくって、今こうやって生きてるわけなの」
わたし「そうですか・・・・・・って」
わたし「!?!?」

突然おばあの口から発された修羅MAXワード。一瞬で思考がストップします。見れば隣の友人も固まっています。こんなニコニコしてるおばあが自殺? こんな穏やかな地で、どうして?

そこからおばあの過去の話が始まりました。

この辺りで生まれたおばあは、小学生の頃に(宗教を信仰していたことを理由に)激しいいじめを受け、自殺未遂を繰り返します。それでも死にきれず、ひとまず学校を出て、仕事を探すために本土(恐らく九州)へ渡りました。そこで繰り返される地獄のような日々(地獄のようだった、とだけおばあは言った)。乱暴されたこともあったようだ。
その後おばあは結婚をして那覇へ戻ります。二人の小さな子どもを抱えながらも、精神が不安定だったおばあは国際通りを夜な夜な着の身着のまま、徘徊する日々を送ります。彼女の奇妙且つ不気味な姿に、警察も声を掛けるのを避けていたとか。
そんなおばあを長い間支え続けたのは、旦那さんだったそうです。周りが離婚しろ、精神病院へ入院させろと言う中で、「自分にも責任がある」と、決して籍を外すことをしなかった。
そしておばあは今、生まれた場所で、静かな日々を送っています。

「神様は、私を決して見捨てなかった」と、神様に感謝するおばあ。

やがておばあが乗るバスが先に来て、おばあは晴れやかな顔で私達に手を振ると、家へと帰って行きました。

帰宅してから

帰宅してからもおばあのことがどうしても頭から離れず、悶々とした日々を送っていました。
私にとって沖縄は、幸せの場所。
都会じゃ決して見ることのできない美しい海や広い空があって、うちなーの人々はそのような環境の中で毎日暮らしている。
独自の伝統文化が色濃く残り、現代の人もそれらに敬意を払い、継承している。
沖縄の人には、笑顔でいてほしい。
沖縄が好きなあまり(沖縄ののんびりとした環境が羨ましいあまり)少し傾倒している部分も無きにしも非ず。けれど自分の中で沖縄は確かにそのようなイメージでした。

それなのにどうしておばあはこんな思いをしなければならなかったの?
都会だってここまで壮絶な人生を送っている人はそうそういません。じゃあどうして。

推測を重ねた先に行き着いたのは、やはり「戦争」の存在でした。

ここから先はあくまで中の人の推測になります
おばあが仮に今年で75歳だった場合、生まれは1943年になります。戦争が終わったのが1945年と考えると、おばあは沖縄戦の生き残りということになります。
おばあが小学校に上がるのは終戦から約4年後。当時小学生だったおばあがどのような思いで宗教にすがったのかまでは分かりかねますが、家庭環境だったにしろ家族で信仰していたにしろ何にしろ、少なからずそこに戦争の影響があったことは、確かなのではないかと考えます。

6月23日を迎えて

あの時、私はおばあに何も声を掛けることはできませんでした。
戦争(戦後)を経験していなくて、しかもおばあと何歳も歳が離れている私が
一体何を言えば良いのか分からなくて、考えて考えて、
「よくここまで、強く生きられましたね」
とだけ、言いました。

それが正解だったのかは分からなかったけれど、その時おばあの顔がふっと笑顔になったのを見て、
これで良かったんだな、とも思いました。

個人的な話になりますが、今年87歳になる私の祖母は昔から、戦争で当時軍医だった父親を失った話と、彼女にとって初孫である私がまだ小さかった頃に、初めて祖母の名前を呼んだ時の話をよくします。ええそれは本当によく。
祖母の家に遊びに行けば毎回その話をしている。物心ついた頃からそうだったので、もう20年はこのやり取りが繰り返されていることになります。

そんな祖母を見て、私達家族は話します。「おばあちゃんになるととっても楽しかったことと、とっても悲しかったことを覚えてるものなんだね」と。

今の平和な世を生きる私が(戦争を経験したおじい、おばあのために)できることは、彼等の話を聞くことなのかもしれません。彼等の話に対して意見をする訳でも議論をする訳でもなく、じっと耳を傾けて、よくそんな中を希望を捨てずに強く生きたと、よく頑張ったと、その気持ちに寄り添うことなのかもしれません。

平和公園に行こう、とは言い出せない

慰霊の日は覚えていませんでしたが、沖縄に遺された戦跡には、かねてより訪れたいと考えていました。
学生の時に一度、そして今回。沖縄にはこれまでに2度訪れたことになりますが、海にグルメに買い物と楽しそうに沖縄のプランを練る友人を横に、「平和公園に行きたい。沖縄戦の遺跡を訪れて、その歴史を一から学びたい」と言い出すことはなかなかできませんでした。

若者の間では(少なくとも中の人の周りでは)戦争が話題にのぼることは全くと言って良いほどありません。
けれど、今回のおばあの話を機に、沖縄が大好きな一人として、
その歴史を学びたい気持ちが強くなりました。

次また誰かと沖縄に行く機会があったら勇気を出して提案してみよう。勇気が出なくても、いつか一人で必ず訪れよう。

そう思いました。

参考URL
沖縄戦全記録 NHK

目を背けたくなるような証言、記録に、見ながら涙が止まりませんでした。